解釈。
例えば英語を聞いていても話せないとする。
対照的な例えばなしとしては、
眼前にはセイタカアワダチソウやヨモギやオオイヌノフグリ
などの興味深い植物があるというのに、通りかかる人はつまらない、退屈だと溜め息を吐いている。
ほんの1メートルほど視界を下げれば、魅力的な学術的世界が広がっているというのに。
今フランス語のこの番組が面白い。毎日テレビをつけても毎日同じようなタレント(謎ワード)と、毎日同じような構成の番組が繰り返されている。インターネットさえ繋がっていれば、フランスのこの番組を日本にいながら楽しめるというのに。
バイリンガルニュースとか、BBC とか、なんでもいい
固有名詞はおいといて英語番組だ
それらは、そこで遊ぶ方法を持っていない限り、[草むらの景色]とか、[海]とかと変わらない。草地で滑ろうとか、釣りをしようとかを知らない限り、インタラクティブな関係になれない。
今私はフランス語を話せないが、フランス語の草原を、海を眺めていると言える。いつかフランス語の取っ手や…調理法や…対決法や…そういうものがその草むらから出てくることを願う。
他言語を眺めている時点で、眺めたことのないものよりかはその扱い方に長けていると言える。
スペイン語はいっつも楽しそう。イタリア語も気持ちいい。
自分はいつか見た[聴覚人間]的な部類なのだろうか?